ドキュメンタリーの技法をもちいて映像制作を学んでいく「DOOR」のドキュメンタリー映像演習。「ドキュメンタリー」と銘打たれているが、よく対比で持ち出されるフィクションとの境界は曖昧だと、森内さんは言う。どんな映像であっても、撮っている人物の視点や編集の意図は必ず入り込んでいるからだ。

「ドキュメンタリーだと真実が描かれてると思われがちで、フィクションだと虚構の世界が描かれていると思われがちですけど、その間にはグラデーションがあって。映像というのは誰かの視点から一方的に捉えられた社会が描かれているので、ドキュメンタリー作品であってもそれが真実かというと、そういうわけではありません。だから僕から「ドキュメンタリー」という言葉を使うことはないです」

「ドキュメンタリー」という言葉に収めてしまうと、こぼれ落ちてしまうもの。それをなかったことにせず丁寧に拾い集める態度は、森内さんの映像制作への向き合い方にも繋がっていく。

うらやすXをさがせ!

前期の授業で受講生たちは、浦安の街をフィールドワークしながら作品を制作した。この授業では基本的に3人ひと組になって制作に取り組んでいく。

「独りよがりな自分の視点だけでは物事を見つめることはできないので、必ずチームでコミュニケーションをとりながら作ることが大切です。3人を一番ミニマムな社会というか、コミュニティと捉えているので、いつも3人組でやっています。その中でどういう役割を担い、どう振る舞いながらひとつのゴールを目指すのか。社会においても違う背景を持つ人同士だとうまくいかないこともありますが、相手を尊重しながらそれぞれの能力や経験値をどう活かしていくのか、対話する能力が必要になってきます」

フィールドワークのお題は「うらやすXをさがせ!」。浦安の街を歩きながら「わからないもの=X」を見つける旅をしていく。それぞれ地図を見る人、カメラを持つ人、声を録音する人に分かれ、旅の中で役割をローテーションする。地図は紙のものを使い、スマホは持たないのが大切なルールのひとつだ。

▲スマホのGPSだと現在地しか把握できないが、紙の地図だと街全体を俯瞰できる。「X」をみつけた場所は紙の地図に記し、「X」の概要をスクリプトノートにメモしていく。

「いまは街を歩いていて、もし分からないものに出くわしてもスマホですぐに検索ができるんですね。僕は分からないものに対する「?」をそのままキープさせたいので、フィールドワーク中はスマホを使うことを禁止しています。分からないまま「X」を撮って、これが何なのか妄想するんです。その妄想をボイスメモに録音して、最終的に写真と音声を合わせてひとつの作品を作ります。なんか気になるなとか、分かんないなっていうひっかかりが、物語のスタートであり作品を作る原動力になると思うんです」

カメラももちろんスマホではなくインスタントカメラ。1枚目は浦安市民に撮ってもらうメンバーの集合写真、27枚目はチョークで描いた旅のタイトルというのが作品のフォーマットとして決まっているが、残り25枚はすべて「X」を撮るために充てられる。

▲3人ひと組になって、浦安市内の「X」を探す受講生たち。普段なんとなく見過ごす街並みも、カメラや録音といったデバイスを持ち込むことで、急に見え方が変わる。

「スマホだとミスっても撮り直しができるし、撮った瞬間に確認できるじゃないですか。でもインスタントカメラはやり直しがきかないので、きちんと「これがXだ!」と思ったものを、しっかり撮っていく必要があります。そうなると、なんてことない街中でもよくよく見ながら「X」を探さないといけないので、見えていなかったものが見えてくるし、いろんな発見があったと思います」

大きな主語に収斂させない、ひとりひとりの物語

2022年度に実施した《流れる、水の声》では、浦安の生活と切っても切り離せない「水」をテーマに、浦安の住民や活動を取材・撮影した。銭湯から見える浦安の暮らし、魚市場、花屋とライフイベント、水辺を守る活動、浦安に住む子どもや大人に水の思い出を集め、水との関わりを考えるなど多岐にわたる題材で制作された7つの映像作品を通して、どんな浦安の姿が見えてきたのだろう。

▲《流れる、水の声》。浦安市で上映会を開催。市民にも観てもらった。

「受講生たちが作った映像はどれもおもしろくて、人間が立ち現れてきました。取材先のひとつだった花屋さんは80代のお父さんと息子さんが上映会に来てくださって『本当に撮ってくれてありがとう』と感謝されていて、取材したチームも『撮影させてくれてありがとうございます』と応える良い関係性が生まれてました。それは二度と戻ってこない瞬間を映像という形で記録に残してくれたことに対しての感謝だったと思います。漁業の街としての浦安をテーマに取材したチームはその後も浦安に通って、お酒を酌み交わす中になったり。それまで関わりがなかった人たちと取材を通していい関係が作れたということは、本当の意味で”人”と出会えたということだと思います」

森内さんは映像を通した人と人の出会い、育まれた関係、生まれた物語を、安易に「浦安らしさ」に帰結させない。大きな主語で語った途端に、ひとりひとりにあるはずの物語は見えづらくなってしまうからだ。それはDOORのテーマである福祉の問題とも繋がっているかもしれない。街全体ではなく、街に息づいているひとりひとりに眼差しを向けるべきなのだ。

「1本の映像を作っただけで、浦安の全体が見えてくることはないと思うんです。僕自身もあんまり整理できてないんですけど、たぶん映像を撮ったからといって、簡単に浦安を語って欲しくないという感じですかね。浦安に住んでるからといってその人が浦安の代表というわけでもない。人には生まれた国や人種というものが、自分の意思とは関係なくあったりするわけですよね。その地域に生まれたから、そこの代表者ではないし、自分は自分であるはずなのに、なぜかそういうふうに見られることがある。それが生きる中での障がいだなと思っていて。だから浦安市民が語ったからと言って『浦安ってやっぱりこうなんだね』という言い方をしちゃいけない気がしています」

撮る側と撮られる側の視点の混じり合い

あくまで「人を撮りたい」という森内さんが今年掲げたテーマは「うらやす、あきない」。DOOR受講生たちは浦安の個人商店やそれに関わるお店や人を取材・撮影する。

「やっぱりいきなり街に住んでる人や道を歩いている人に取材しても、警戒されるしそんなに開かれてないんですね。だから人に開かれてるお店を選びました。去年は『水』というテーマに対してどんな取材先をみつけてどう入っていくかが課題だったんですけど、今回はすでに取材対象がいて、どんなテーマをみつけていくかが課題になります」

さらに今年は実験として、とある企みをしている。取材対象者にもインスタントカメラを渡して指示した写真を撮ってもらい、作品に取り込むことだ。撮る人と撮られる人の視点が混ざるようなこの試みは、浦安弁から発想された。

「浦安弁で『おい』と『いし』という言葉があって。『おい』は私を指して『いし』はあなたを指しています。取材する側の『おいの視点』と取材される側の『いしの視点』の映像に入ることで、お互いの視点が混ざり合って両者の境界が曖昧になるような映像作品が作れないかと考えています。浦安の人にとっても上映会で『いしの視点』で撮った自分の写真がどう作品に使われているか楽しみになりますし、贈り物を与え合うではないですけど、お互いの視点が映像に入ることでいい時間が生めないかと考えています」

「撮る側」と「撮られる側」という二項対立を飛び越えて、お互いの視点が交わることは、果たして作品にどんな作用を及ぼすのか。その結果はぜひ上映会で確かめてほしい。


ext = Lee.Senmi

edit = Tatsuhiko watanabe