取材と編集は、他人を理解するプロセス

「浦安発見プロジェクト」では「うらやす、あきない」をテーマにDOOR受講生たちが6チームにわかれ、夏から約半年かけて浦安の個人商店の取材撮影を行なった。お店側からすると、日常にカメラと他人が入り込んでくる特殊な環境下の中、撮る側(受講生)と撮られる側(お店の人)の関係は少しずつ築かれていったと、森内さんは言う。

「最初は撮られる側もすごく緊張もするし、場合によっては日常をカメラに撮られるのは不愉快だと思われかねないです。でも撮影された素材を見ると、撮影が繰り返されるうちに関係性が出来上がって、いい場の雰囲気が映像から伺えました。『今日は何撮るんだろう』と、お店の人は撮られてることを意識しつつ、撮影者である受講生たちにちょっかいを出すいい関係性のチームもあって。でも関係が近くなればいいものが撮れるかというと、それはまた別の話なんです。最初の緊張感の中で出てきた言葉や、警戒しながら喋っている言葉の方が良いときもあるので、難しいんですけどね」

▲《つながりのカタチ》。「でんきのエルク」を取材。謎が多い街の電気屋さんの街に根付いた実体を知ることができる。
▲《あきないふたり》。老舗和菓子屋「富岡 美好」を取材。高校時代からのパートナーだという二人の関係性をテーマを際立たせるために、最終的に編集をガラリと変えた。

関係性が育まれるのは取材中だけではない。映像素材を編集する中で、その人の声を繰り返し聞くことで撮る側にある変化が訪れる。

「取材対象者に対して取材するときにはあまり感情を持ってなかったけど、編集をしていくうちにその人のことについてすごく興味を持ちだしたという受講生の感想があって、すごくいいなと思いました。僕も仕事で編集してて、そういう経験があります。インタビューだと、その人と実際に会うのは取材当日の短い時間だけのことも多いんですけど、持ち帰った後の長い編集作業でその人の声をずっと聞き続けていくと、いつの間にか勝手に親近感を持っています。それは映像編集の醍醐味だと思いますね」

声には、テキストに起こした文字よりもたくさんの情報が潜んでいる。取材した人の肉声を何度も聞くうちに言葉が濾され、発した言葉に現れていない想いや感情の機微を掬い取ることができる。取材で相対する時間よりも、むしろ編集をする時間によって、取材対象者との距離がだんだん近づいていく。

▲《白いエプロン》。「白いエプロン」を取材。弁当屋を営む家族の舞台裏に密着。仕事も日常も一緒なのに笑顔が絶えない家族の柱にはお母さんが。
▲《住宅街の小料理屋〜萌寿の女将 江森さん〜》。「小味庵・萌寿」を取材。自分がおいしいと思う日本酒を紹介したくて小料理屋を開いた江守さんのキャラクターは鮮烈。

現像する時間の豊かさ

できあがった映像作品の上映会を、浦安市内で開催するまでが「浦安発見プロジェクト」の一環だ。上映会のタイトルは「現像される街、お店」と名付けられた。

「やっぱり現像されたときに、また新たに発見することは多いです。あのときの時間や空間はこんなだったのかと、写真が現像されて初めて見えてくるイメージです」

現像には、取材撮影から作品完成を繋ぐ編集の時間が含まれている。作品が形になるまで、いろんなできごとが起こっているプロセスを現像だと捉えると、実は作品を鑑賞している時間さえも、鑑賞者によって現像が行われているのかもしれない。

「例えば《豊田たばこ店》は情報量が少なくて、風景ショットや喋ってない間(ま)がところどころあるんですが、そこで勝手に観る側がこの人の人生や生活を想像するんですね。映像にも声にも出ていない部分を、観る側が作り上げていくことができる。映画なんかは、むしろ何もない時間が一番だと思う。見る側の想像を能動的に加えられる時間があるから、おもしろいわけです」

▲《豊田たばこ店》。「豊田たばこ店」を取材。6チームの中で、唯一の受講生が見つけてきたお店。たばこ店を営む102歳の豊田やすさんの浦安での生活が映し出される。
▲《堀越さんと飯田さん》。鉄鋼団地にある「中村機材」を取材。新人社員とベテラン職人の関係に、ものづくりの未来を思う。

現代では人の可処分時間の奪い合いが熾烈を極める中で、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスが重要視され、映画を倍速で観たりセリフがないシーンを飛ばす人も増えている。窓から降り注ぐ陽の中でお菓子を作り続ける手、誰かの記憶のように流れる浦安の風景、返答に悩んでいる時間。「情報がない」と飛ばされるようなシーンにこそ、観る人の想像を継ぎ足していける余地がある。そんな時間が豊かだと、森内さんは言う。

「10分〜15分の映像にまとめようとすると『こういう人です』『こういうお店です』と、つい単純化して紹介したくなっちゃうんですけど、その人物やお店のすべてを紹介することはできないですよね。あくまで、その人の断片を覗いたつもりでいようというのが、作る側と観る側のお互いの共通の認識であるべきだと思います。余白の部分はお互いで創造できる時間であって、解釈はそれぞれで構わないという姿勢ですね。僕が普段から簡単にドキュメンタリーという言葉を使いたくないのもそこにも通じるところがあって。想像を加えるということはある種、フィクションであるとも言えると思うんですよね」

観る人の想像=創造も加わることで、新たな物語が現像される。DOORでの学び自体が、現像されるまでの豊かな時間なのかもしれない。

後日開催された上映会には、取材されたお店の人たちも招待された。少し照れながら、だけど誇らしく映像を観ていたお店の人たち。上映後の受講生とお店の人たちとのアフタートークでも、お互いを気遣いあったり、冗談を言い合ったりと関係性が垣間見えた。

▲上映会にはたくさんの来場者が参加。
▲撮る側の視点と、撮られる側の視点の混ざり合いを実験的に取り入れた今回、お店の人にもインスタントカメラを渡して写真を撮ってもらっていた。アフタートークでは「小味庵・萌寿」の江森さんからインスタントカメラについて、「なんでわざわざ綺麗じゃない写真を使うんですか?」という率直な質問もぶつけられていた。

午前の部、午後の部のそれぞれの終わりには、隣り合った人と作品の感想を話し合う時間が設けられていた。「こんなお店が浦安にあったんだね」「普段利用しているお店の人たちのことを、初めて知った」と、話していくうちに一人ひとりにとっての浦安という街が新たに現像されていくのだった。


text: Lee Senmi
edit: Tatsuhiko Watanabe